東洋経済オンラインより
何だろうか
最近ちょくちょく書いた気がするけど
そもそも成人に対する意識についての話はなんかちょっと違うんじゃなかろうかと思い始めた
たしかに子どもたちを安全な環境下で一定の水準まで引き上げるのは教育のあるべき形であるのは間違いないと思います
思いますがそれは一側面的な話でもあるのかなと思う
これは前々から少なからず抱いていた認識として
この年になったら急に成人しますよろしくってのはなんか違うんじゃないかと
成人の日に向けて子どもたち一人一人が飛び立つんだという当事者意識を明確に持ち
そこに向けて歩みを進めている意識を持たせるのもまた教育の役目なのではないかなと
おっと
それくらい自分で学んでもらわないと困るって意見の方もいるでしょう
子どもらが個人的に学んでいく姿勢も尊重されるべきあることに疑いはありません
ただそれとは別に一定水準を保つとした場合は成人として負うべき意識改革なるものはあってもいいのかなと
周りの大人がどうしたからではなく大人を待つのではなく自分がいく的な、、、
授業では成人したらやること的なことも習うんだけど
それが自分にどれだけ降りかかるかを意識する子は多くないだろうと思うんですよね
習っただけでは
結局他の勉強と同一しただけで終わっちゃう
自分たちではない
どこか物語の一部とでも捉えてしまうような
なんてところがないかを思ってほしいですね
それが今までは大学入って法律勉強した時に追いついてたから二十歳でよかったなのか
大学入らないと追いつかない人多いなら変わらないとなるのか
これも答えのない答えに近いものの一つなんでしょうかね
各家庭の自立についての躾の問題でしょうなのか
どこまでを教育におんぶに抱っこさせるのか
家庭という環境に任せるのか教育環境下に水準としておくか
前者は自由主義によるもの
後者は社会主義とでも区分けでなりえそうだな
それでも日本における教育格差とやらが指し示すものがどの範囲にまで言及してるか次第でしょうかね
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